北の新地考 我国経済の活力の源、難波・大阪・船場は太閤さんから徳川時代へと日本という小世界の国際都市、経済の中心地として発展した。一六三四年、淀屋橋を作った淀屋の店頭で米相場が始まる。後に堂島に移るが、之は我国に於ける全国的な価格決定の始まりの場といえるのである。つまり、それからは情報の大発信地となったのであった。
爾来、船場は天下の台所として、我国の富の七割がそこに集まったといわれた。ここには自由経済のメカニズムが自然的に発達し、全国から元気、活力に溢れた青年達がぞくぞくと集まり大いに商売を競うが、之は当然厳しい競争の場であり、死活を賭けた神経をすりへらす仕事である。
この船場が大発展するにつれ、その西側、横堀川の西の新町は当時世界最大の歓楽街となり、曽根崎新地(今日の北の新地)も又、近松の世話物で一段と有名になった。
人々は商いの疲れを癒す為、又自然の求める当然の現象として、これらは大きく栄えた。今日もまたしかりと言えるが、ただしこれからの二十一世紀にかけて、時代は正に本格的な国際化時代。異文化との交渉に疲れた神経を休ませるには、最適の場所となるのである。我々はそこで酔い、且つ歌い、企業の組織の不合理を嘆き、上役への悪口で気分をほぐし(我が国の文化では誰も上役に告げ口をしないので)、人々は安心してリラックスし、明日の仕事への活力を取りもどすのである。
そこでは西行法師が会った夜の君(普賢菩薩の化身)の如き、或いは又、外面如観音も時には会えるのかも知れぬが、我々の活力の再活性の為の極めて重要な場として、北の新地よ。栄あれかし。